シンポジウム趣意書

16~17世紀の海域世界における国家と社会

 現在、歴史研究の中でも、特に「海域アジア史」という比較的新しい分野の研究が盛んである。「海域アジア史」とは、これまで陸の視点により区分されてきた「東アジア」「東南アジア」「南アジア」といった表現とは異なり、海の世界だけでなく、海をはさんだ陸同士の交流、さらには海上と陸上の相互関係などを含む学問概念である。文献資料だけでなく考古学資料や民俗学資料、そして美術資料など多様な資料を分析素材として利用するなど学際的要素を持ち、さらに国境や民族を越えた人々の交流や集結のあり方を探るなど、独自の視点から分析がおこなわれている。
 「海域アジア史」は、約30年前から日本史・東洋史双方の研究者により学術的な進展を示す一方、博多をはじめとする国内各地の港湾都市の考古学的調査による貿易陶磁器など大量の遺物分析により活発となった。そして特に、文部科学省科学研究費補助金特定領域研究として採択された「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成―寧波を焦点とする学際的創生」(2005~2009年度)と題する研究(通称「寧プロ」)の開始も相まって、関連領域において多くの研究成果が公開・蓄積されてきた。
 広島史学研究会の大会シンポジウムでも、「海域アジア史」関連のものとして2007年度「中・近世期の港湾都市と海域世界のネットワーク―海・都市・宗教―」と、2011年度「16~17世紀の東アジア交易秩序と銀流通」が開催されている。このうち前者では、アジア海域ネットワークと地中海域ネットワークの比較、海域ネットワークの中の海港都市の性格、そして海港都市における宗教的寛容の問題について、また後者では、1570年システムの実態や、近世東アジア海域の交易秩序と銀の流通、そしてウォーラーステインの「世界システム論」の再考といった角度から検討・議論した。そこで今回は、同じ時期を対象としつつも、これまでとは違う角度から海域世界の具体像に迫ってみたい。
 さて、かつて活発であった「海域アジア史」研究だが、多数の研究成果が次々と登場した頃に比べると、今はやや状況が落ち着いてきた感がある。しかしそれでも新たな発見が続いている。たとえば、後期倭寇の活動内容を描いたとされる東京大学史料編纂所所蔵の「倭寇図巻」は従来よく知られていたものの、関係資料が無いため詳細は不明だった。ところが近年、それとよく似た構成・内容をもつ「抗倭図巻」が中国国家博物館(北京)に所蔵されていることが判明し、日中両国の研究者の共同研究により、両方の絵が「原倭寇図巻」ともいうべき共通原本から派生した模本であること、また赤外線撮影による調査の結果、絵画の中に見える旗に日本年号「弘治」が書かれていることがわかり、両図が弘治年間(1555~1558)に朝貢しようとした大友・大内両氏など日本の地域大名、すなわち戦国大名が経営・派遣した遣明船が入貢を拒否され、明朝の政府軍からも賊船として攻撃を受けた事件を素材としていることが判明した。
 それは、一般的によく知られた、1547年(天文16)に出発した遣明船を最後の勘合貿易とする従来の説を否定するものであり、実際はその後も「日本国王」印を利用した朝貢貿易が地域大名によって実施されていたことを示すことになった。こうして歴史資料としての高い価値を与えられた「倭寇図巻」と「抗倭図巻」だが、そこに登場する倭寇と民衆、そして明の政府軍の活動実態とその関係について具体化する作業はまだまだこれからである。
 そこで今年度の大会シンポジウムでは、「16~17世紀の海域世界における国家と社会」という全体テーマのもとに、現在その時期を対象として精力的に研究を進めている3人の方に御登壇願うこととした。
 第1報告は、「16世紀イングランドの船乗りと海事共同体(maritime community)」と題して井内太郎氏(広島大学)が報告をおこなう。これまでの近世イングランドの海事史研究は、強く、揺るがないイギリス帝国の勝利の物語やドレイクの世界周航などの伝説的な英雄物語として、さらにイングランドという「ナショナルなカテゴリー」を主役にして語られてきた。そこで本報告は、こうしたナショナルな物語に回収されず、名前さえ残らないような船乗りたちの生きられた経験を掘り起こしながら、彼らの社会のあり方を再構築することを目的としている。すなわちヨーロッパの商業的ならびに地理的拡張や宗教改革の時代が、海軍や私掠船によるスペインとの戦いと同様に、イングランドの船乗りの社会に大きな影響を与えることになった。この間に船員の間で相互依存のネットワーク、共通のサブ・カルチャ、血縁関係、友人関係、仕事関係、貸借関係が形成され、海に関わる職業を持つ人々は、イングランドというより大きな社会の中の一つのコミュニティ(海事共同体)において生きていることを強く認識することができたという。報告ではその点を掘り下げたものになろう。
 続いて第2報告は、「兪大猷の生涯―明代中国の官軍と海賊―」と題して山崎岳氏(奈良大学)がおこなう。兪大猷(1503~1579)は、明代中期に活躍した軍人で、主に東南沿海部の海賊の鎮圧で名をなした人物である。福建泉州衛の下級軍官の家に生まれ、武官としては最高度の出世を果たしたが、一方で、生涯を通じて度重なる降格・免官処分を受け、その官歴は浮沈に富んだものであった。当時の中国沿海部では、国際的な商業経済の活性化を受け、大小の武装勢力が叢生しており、兪大猷の武官としての活躍、およびそれについてまわった疑惑は、こうした社会背景と無関係ではない。そこで本報告では、当時の商業と軍事の構造的関係を踏まえつつ、兪大猷の治績を通観することで、中国史を通底する課題である国家と社会、ならびに王朝機構と海域世界との関係の一端を探る。
 そして最後に、藤田明良氏(天理大学)が「海域アジア史のなかの“朱印船時代”」と題する報告をおこなう。16世紀の海域アジアには大量の銀(50%は日本、25%はフィリピンマニラから)が中国に運ばれ、生糸・絹織物・陶磁器などのブランド品が世界に拡散する地球規模のネットワークの中心となった。そしてその主要な担い手である「倭寇」の圧力に耐え切れなくなった明政府は、1570年前後に私貿易禁圧から公認へ舵を切り、「倭寇」の主要基地のあった日本でも豊臣政権が1588年にその解体を宣言(海賊停止令)し、マニラを含むアジア各地に通交を呼びかけた。そして武力による宗主権樹立に失敗した同政権にかわった徳川政権は海域アジアに接する各権力と積極的な通好を展開し、新興プロテスタント国を含む諸勢力の利用と統御に試行錯誤を重ねたという。そこで本報告では、後に「長崎口」に収斂する地域に関わる歴史遺産を手掛かりに、17世紀前葉のヒト・モノ・情報の移動を担ったプレーヤーたちの目線から、当該期の海域アジアの実態と歴史的特質に迫る。
 このように、今回のシンポジウムでは、西洋史が16世紀イングランドにおける無名の船乗りの留守を預かる家族や共同体の実態を述べるものであり、また東洋史が明朝の政府軍の司令官を通して当時の国家と社会を見つめ直すこと、そして日本史が17世紀初めの徳川政権初期の海上勢力の視点から海域アジアの実態について明らかにするものである。シンポジウム当日は、これら西洋史・東洋史・日本史の枠組みを乗り越えて幅広く議論が繰り広げられることを大いに期待している。
 なお、今年度のシンポジウムは初めてのオンライン開催となる。広島史学研究会の会員以外の方も数多く参加されるであろう。様々な角度から、ご意見をお寄せいただければ幸いである。