2021年度 東洋史部会発表要旨 
 

1、1930年代上海における土酒商脱税事件と行政訴訟

       広島大学 金子  肇

  1935年8月、江蘇省泰興県の土酒(産地酒)商が上海に搬送した土酒が、南京国民政府の蘇浙皖区統税局上海査験所に脱税の嫌疑をかけられ摘発された。当時、税政の近代化を図る同政府の下で土酒税制の改革が進められ、徴税当局の検査業務と脱税の摘発も厳しさを増していたのである。これに対して、土酒商は果敢にも財政部と行政院に訴願(不服申立て)を行い、さらに行政裁判所にあたる行政法院に行政訴訟を起こした。土酒商の動きの背景には、国民政府が司法改革の一環として行政訴訟制度の枠組みを整備しつつあったこと、そして土酒商を上海・泰興の酒業団体が積極的に支援したことがあった。
 本報告では、上海市?案館で発掘した上記上海査験所の公文書を用いながら、脱税嫌疑の内実、土酒商側の反駁、徴税当局(査験所・税務署・財政部)と行政院の訴願に対する処分内容、行政法院の判決を紹介し、事件の顛末を明らかにしていく。

 

2、中華人民共和国成立初期の兵役・革命関係者と政治動員

      広島大学 丸田 孝志

中華人民共和国成立初期の基層社会には、革命烈士の家族、現役軍人の家族、傷痍軍人、復員軍人ら、兵役・革命の負担に関わる人々(兵役・革命関係者)が、約3,000万人存在していた。これらの人々は、革命に対する犠牲・貢献によって、顕彰の対象となるとともに、その中に傷痍軍人や働き手を失った社会的弱者を多く含むため、救済の対象でもあった。政府は、兵役・革命関係者に様々な優遇措置を講じながらも、一貫してこれらの人々が農業合作化運動などに積極的に参加することを、貧困解決の重要な手段の一つとしていた。また、その「光栄な伝統」に基づいて更なる自己犠牲が求められ、女性・老人・傷痍軍人らを中心に超人的な働きをする模範が顕彰された。このように兵役・革命関係者には、基層において革命の権威を担いつつ政策を推進し、労働力の極限までの組織化を達成する役割が期待されていたのである


中国共産党の新民主主義論について─その形成過程を中心として


      広島大学 水羽 信男


  新民主主義論は、中国革命の理論的な支柱と位置づけられ、中共と「民主党派」の合作に基づき、社会主義へは長期にわたる平和的な方法で移行するとされていた。周知のように、その構想は朝鮮戦争にともなう「過渡期の総路線」の確定(1953年)により換骨奪胎され、中共自身によって放棄された。だが、20世紀末以後、中国の民主化を求める声の高まりを背景として、新民主主義論は中国革命が示した「もう一つの可能性」として、ふたたび脚光を浴びた。といはえ昨今の中国の政治情勢を反映してか、今日では中国だけでなく日本の学界の関心も薄れたように思われる。本報告では、中央檔案館所蔵史料などを使って中国で発表された先行研究の成果に学びつつ、新民主主義論の形成過程について再検討する。その際、中共のリベラリズムや「民族資産階級」に対する理論的な評価などに留意したい。


 
4、19世紀前半~半ばにおけるベトナム阮朝の地方支配の変遷と土司―諒山省を中心に―

      関西大学 吉川 和希

ベトナム北部山地のうち諒山省・高平省などの東北地域は、ベトナム民主共和国期から在地住民の「キン人との親和性」、中でもベトナム王朝との結びつきを自身の権威の源泉とみなすようになった土司の存在が注目されてきた。しかし、彼らがいかなる歴史的背景でベトナム王朝との結びつきを強めていったのか、十分には解明されていない。また阮朝期(1802~1945年)の1820~1830年代に改土帰流を含む行政改革がおこなわれ、北部山地各省の土司も廃止されたが、1850年代初頭に始まる華人武装集団の騒擾により阮朝の山地統治は危機的状況に陥る。しかし、かかる状況下における阮朝の地方支配の変遷や地域住民の対応は、十分には解明されていない。以上の問題意識のもと、本発表では諒山省に焦点を当て、行政文書(阮朝硃本)の分析を通じて阮朝の地方支配の実情や(旧)土司の動向を明らかにし、1850年代に土司を復活させるなど軍事面で在地有力者を動員する傾向が強まること、および土司の側も阮朝の地方支配に協力することで勢力保持をはかったこと、などを論じる。


 

5、ヴェトナム黎朝期「充軍」考


      広島大学 八尾 隆生


  長く中国の支配下にあったヴェトナムは、10世紀に独立をとげ、その後20世紀の阮朝滅亡までいくつかの王朝が成立した。ただ独立後もヴェトナム政権は有形無形の中国の文物の影響を受け続けた。たとえば法律がそうであり、15世紀に成立した黎朝が公布した『國朝刑律』も、唐律や明律の影響を受けていることは多くの指摘がある。
 本国中国では唐律が成立した後、五代、宋、金、元、明と王朝が変わるにつれ政治体制や社会変動が起こり、主たる量刑である「五刑」制度が事実上崩壊し、新たな量刑基準が追加された。事はヴェトナムでも同様で、『國朝刑律』には唐律の「五刑」にはない「罰銭」「貶資」「充軍」といった刑罰が加わっているが、中国法制史を踏まえた上でのその実態に関する考察は十分には行われていない。そこで本報告では明律にも見える「充軍」と『國朝刑律』ほか黎法に見られる「充軍」の運用実態の異同につき、私見を開陳したい。